村上春樹さんの新刊「一人称単数」を買ってきて読みました。
久しぶりに、懐かしい村上春樹さんに再会できたような、そんな短編小説集。
お久しぶりですね、村上さん。
書名:一人称単数
著者:村上春樹
発行:2020/7/20
出版社:文藝春秋
作品紹介
「一人称単数」は、村上春樹さんの短編小説集です。
全部で8編の短編を収録しており、そのうち単行本書き下ろしは表題作「一人称単数」1作のみで、その他7編は雑誌「文学界」での既発表作品となっています。
(目次)石のまくらに(「文学界」2018/7)/クリーム(「文学界」2018/7)/チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ(「文学界」2018/7)/ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles(「文学界」2019/8)/「ヤクルト・スワローズ詩集」(「文学界」2019/8)/謝肉祭(Carnaval)(「文学界」2019/12)/品川猿の告白(「文学界」2020/2)/一人称単数(書き下ろし)
なれそめ
村上さん6年ぶりの短編集が刊行されるというニュースはもちろん知っていたし、その新刊が既にベストセラーになっているということも、もちろん知っていました。
難しいのは、ベストセラーになると分かっている村上さんの新刊を、どのタイミングで読むべきか?ということです。
発売日を待って買うのはミーハー過ぎるし、ベストセラーになってから買うのもやっぱりミーハー過ぎる。
何だか難しくて面倒くさい小説家になっちゃいましたね、村上さんは―なんてことをブツブツ言いながら、何もすることがない三連休の暇潰しという体を装って、とうとう買ってきてしまいました、ベストセラーの「一人称単数」。
発売日に書店で見かけたときには恥ずかしくて手に取ることもできなかったけれど、そろそろいいですよね(笑)
あらすじ
「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。
しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。
そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。
そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。
そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?
「一人称単数」の世界にようこそ。
6年ぶりに放たれる、8作からなる短編小説集。
短編小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ。
(帯の紹介文より)
本の壺
心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。
「死んだときに私が何を考えていたかわかるかい?」とバードは言った
「死んだときに私が何を考えていたかわかるかい?」とバードは言った。「私の頭の中にあったのは、ただひとつのメロディーだった。それを繰り返し繰り返し、いつまでも頭の中で口ずさんでいた」(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」)
ジャズミュージックが好きな方であれば、あるいはボサノヴァ音楽が好きだと感じている方やチャーリー・パーカーという人間に関心がある方であれば、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という作品は、それだけで十分読むに値する短編小説だと思います。
「私が死んだとき、私はまだ三十四歳だった」とつぶやいたチャーリー・パーカーは、「三十四歳で死ぬというのがどういうことなのか、ちょっと考えてみてくれ」と、僕に向かって問いかけます。
「自分がもし三十四歳で死んでいたなら、そのときどんなことを感じていただろう」と考えながら、僕は「三十四歳の頃の僕は、まだいろんなものごとを開始したばかりの状態にあった」ことを思い出します。
そうか。
これは、懐かしき『1963/1982年のイパネマ娘』から続く、村上春樹とボサノヴァ音楽の世界の物語なのかもしれませんね。
高校の薄暗い廊下、揺れるスカートの裾、そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」
かつての少女たちが年老いてしまったことで悲しい気持ちになるのはたぶん、僕が少年の頃に抱いていた夢のようなものが、既に効力を失ってしまったことをあらためて認めなくてはならないからだろう。夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。(「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」)
ビートルズを巡るいくつかのエピソードで構成された短編作品ですが、ある意味で、久しぶりに村上春樹らしい短編小説を読んだような気がします。
彼らの世代にとってビートルズは「あくまでも受動的に耳に入り、意識をすらすらと通過していく流行りの音楽」であり、「音楽的壁紙」とも呼ぶべき「青春時代の背景音楽でしかなかった」と著者は考えていますが、そうした青春時代の「音楽的壁紙」は、著者の青春時代を鮮やかに彩る大きな役割を果たしていました。
「1965年の夏について僕が思い出せるのは、白いワンピースと、柑橘系のシャンプーの香りと、とても頑丈なワイヤ付きブラジャーの感触と(当時のブラジャーは下着というよりは、まさに要塞に近い代物だった)、パーシーフェイス楽団が流暢に演奏する『夏の日の恋だ』」という文章でも分かるとおり、ある女の子に関する思い出も、パーシーフェイス楽団の「夏の日の恋」と不可分に記憶されています。
お気に入りは「ポップソングがいちばん深く、じわじわと自然に心に沁みこむ時代が、その人の人生で最も幸福な時期だと主張する人もいる。たしかにそうかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。ポップソングは結局のところ、ただのポップソングでしかないのかもしれない。そして僕らの人生なんて結局のところ、ただの粉飾された消耗品に過ぎないのかもしれない」というフレーズ。
この短編小説は「ある意味で」村上春樹という小説家にとって、代表作のひとつになり得る力を持っている作品だと思いました。
「すみません。あの、これ黒ビールなんですが」
僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。「すみません。あの、これ黒ビールなんですが」と。(「ヤクルト・スワローズ詩集」)
今回の短編小説集を読み終えて一番おもしろかった作品は「『ヤクルト・スワローズ詩集』」です。
サンケイ・アトムズの時代からヤクルト・スワローズのファンだった「僕」は、神宮球場へと通いつめるうちに、退屈な試合の隙間時間を使ってヤクルト・スワローズについての詩を書き溜めるようになりました。
本作は、そんなヤクルト・スワローズについての思い出で構成されていますが、ヤクルト・スワローズに関する思い出は、やがて、阪神タイガースの熱心なファンだった父親や、阪神タイガースの選手のテレフォン・カードを集めていた母親の記憶へと繋がっていきます。
プロ野球を通して語られる「僕」の父親や母親に関する思い出が、もしかすると、この作品の大きなテーマだったのかもしれませんが、この小説はあくまでもヤクルト・スワローズと神宮球場を主役として読むべき作品のような気がします。
「1978年の初優勝の年、僕は千駄ヶ谷に住んでいて、十分も歩けば神宮球場に行けた」僕は「だから暇さえあれば試合を見に行った」そうですが、「その年、ヤクルト・スワローズは球団創設29年目にして初めてリーグ優勝を遂げ、余勢を駆って日本シリーズまで制覇してしま」い、「そしてその年、僕はやはり29歳にして初めて小説らしきものを書き上げた。『風の歌を聴け』という作品で、それは「群像」の新人賞を取り、僕はそのときからとりあえず小説家と呼ばれるようになった」と、村上春樹という小説家とヤクルト・スワローズの「ただの偶然の一致に過ぎない」事実を紹介しています。
ヤクルトの優勝と村上春樹の作家デビューはもちろん「ただの偶然の一致」に過ぎませんが、村上春樹という作家は周囲が考えている以上に、ヤクルト・スワローズとの不思議な縁を大切にしているかもしれないと思いました。
ラストシーンに登場する黒ビール売りの少年の「すみません。あの、これ黒ビールなんですが」というくだりが微笑ましくて好きです。
読書感想こらむ
本を開いて最初の作品「石のまくらに」を読み始めた瞬間に、「あれ? なんだか前に読んだことがあるぞ」と思ったら、「文学界」掲載時に読んだ作品でした。
いつものように「予備知識まったくなし」の状態で読み始めたので、「文学界」掲載作品を収録した短編集だということさえ全然知りませんでした(全編6年ぶりの作品かと思っていた)。
もちろん、だからといって「つまらない」ということは全然なくて、「文学界」で読んだとき以上に、どの作品も楽しく読むことができました。
むしろ、唯一の書き下ろし作品である表題作の「一人称単数」だけが、他の作品と馴染んでいないように感じられたくらいです。
高校時代を回想して描かれている「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、デビュー作「風の歌を聴け」に、とても近い距離にある作品だと思います(文学作品としての完成度は、もちろん比べるべくもないにせよ)。
「ヤクルト・スワローズ詩集」は文学作品として「非常に上手な作品」で、熟練の職人が様々な技術を高度に駆使して、素朴な民芸品を完成させているのに近い感覚を覚えます。
全体に「僕」によって語られる私小説の形態で構成されていますが、長年の村上春樹ファンとしては、ひとつひとつのもっともらしいエピソードにも「騙されないからね」という固いシールドを張りながら読み終えてしまったとしても仕方のないことでしょう(笑)
まとめ
村上春樹さんの「一人称単数」は、ある意味で、とても村上春樹らしい短編小説集です。
全編を通して非常に読みやすく、読書に慣れていない方が村上春樹デビューするにもお勧めだと思います。
推しは「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「ヤクルト・スワローズ詩集」。
著者紹介
村上春樹(小説家)
1949年(昭和24年)、京都市生まれ。
翻訳家としても活躍。
「一人称単数」刊行時は71歳だった。