日本文学の世界

椎名誠「岳物語」父親という中年男性の喪失感とカタルシス

椎名誠「岳物語」あらすじと感想と考察

椎名誠「岳物語」読了。

本作「岳物語」は、1983年(昭和58年)11月から1985年(昭和60年)4月まで『青春と読書』に連載された長篇小説である。

連載開始の年、著者は39歳だった。

単行本は、1985年(昭和60年)5月に集英社から刊行されている。

父親という中年男性のカタルシス

『岳物語』というと、父親の視点から息子の成長を描いたほのぼの家族小説というイメージが強いけれど、特に、息子の幼いうちは、子ども以上に父親自身が掘り下げられている。

例えば、最初の「きんもくせい」という作品は、哀愁漂うシングルマザーに心奪われる中年男性のほのかな浮気心を描いた作品。

林の道を出ると秋の風がすこし強く吹いていた。風にのって健二郎君の母親のつけている化粧品の匂いが鼻先をかすめた。それはいまの季節にふさわしいきんもくせいの花の匂いのようであった。(椎名誠「岳物語」)

この作品で、岳少年はじめとする子どもたちは、いわば物語の舞台回しの役柄で、主人公は、あくまでも、物語の語り手である中年男性(椎名誠だろう)自身だ。

岳少年の友人で、そのシングルマザーの息子である少年が「ぼくのおとうさんは地獄におちて死んでしまったんだ」とつぶやくあたり、なかなか人生の深みを感じさせる。

「アゲハチョウ」は、子どもの成長を見守る夫婦の物語で、この作品においても、主役は、やはり主人公夫妻ということになるだろう。

「すごいなあ、急にいっぺんにアゲハチョウになってしまったんだ」と、岳はその虫籠を両手に持ち、そのあとどうしていいかさっぱりわからない、といったふうに明るく陽気に困惑したような表情をみせながらしばらくそこに立ちつくしていた。(椎名誠「岳物語」)

放任主義の両親のもとで育てられた岳少年は、文教地区の小学校にあって、ちょっとした問題児として扱われている。

社会の価値観との違いに戸惑う夫婦の、息子を愛する気持ちは、あっという間に成長して羽ばたいていったアゲハチョウに託されていると言っていい。

その他「インドのラッパ」や「三十年」も、主人公である中年男性の少年時代を回想したもので、「インドのラッパ」にあっては、息子の岳少年は舞台回しとしての役割さえ担っていない。

あれからもう三十年たっているのだ。それと同時に私の父親が死んでからの三十年でもあった。そしてこの三十年はもうひとつ、いま坊主頭に刈っている息子の岳と、私との、親と子の年のへだたりそのものでもあった。(椎名誠「岳物語」)

父親というのは、息子の成長の中に、かつて少年だった自身の成長を見てしまうものらしい。

本作『岳物語』のひとつのテーマは、父親であり、かつて少年であった中年男性のカタルシスである。

父親の喪失感

『岳物語』が本当に岳物語らしくなってくるのは「ムロアジ大作戦」からで、それは、カヌーイスト野田知佑が登場してからということになる。

「椎名さんはまだ岳にステられていないの?」千葉の亀山湖に行ったとき、野田知佑さんがエイヤッと投網を打ちながらそんなことを言っていたのをこのごろ私はしばしば思いだすのだ。(椎名誠「岳物語」)

少年の成長に、親戚のオジサンが重要な役割を果たすみたいに、岳少年の成長には、野田知佑の存在が大きく関わっている。

岳少年の父親離れを強く感じた場面に、「三十年」の中のラーメン屋での会話がある。

北海道でのカヌー旅行から帰った来た岳少年を迎えた父親は、「国分寺駅前のラーメン屋で餃子とラーメンとゴハンという、このところ岳と外で何かたべるときの両者統一メニュー」を注文する。

「さきに餃子食ってたらいいだろ」と、私は言った。「ラーメンに餃子を入れてたべるんだ。テントのめしはみんなそうやって食うんだ」と、岳は私をすこし睨みつけるような、ちょっと何時もとは違う顔つきをしてそんなことを言った。(椎名誠「岳物語」)

父と息子の「両者統一メニュー」だと思っていたラーメンと餃子だが、息子は既に父を離れて、自分の食べ方を身に付け始めている。

おそらく、この『岳物語』という作品において、岳少年の明確な父親離れを確認できるのは、このシーンが最初だったのではないだろうか。

その後、「ハゼ釣り」と「二日間のプレゼント」では、息子である岳少年の成長を明確なテーマに据えた物語が展開されている。

その集大成ともいえる作品が、最後の「二日間のプレゼント」だろう。

私は息をつめ、岳の言っている”音”を聞きとろうとした。しかし電波の嵐は私と岳の回線の中で加速度的に激しく荒れ狂いだし、パチパチしゅるしゅるという音に重なって数千匹の昆虫が羽ばたいているようなボリュウム感のあるざわめきが暗闇の中に盛り上ってきこえてきた。(椎名誠「岳物語」)

シベリアからの長距離電話は、日本にいる岳少年の言葉を、ひどく遠いものに思わせている。

それは、もう少しで父親の元から離れていこうとする岳少年の、そして、そのことを既に覚悟している父親の気持ちを投影したものだっただろう。

息子の成長を願う父親が持つ半面の寂しさ。

それは、多くの父親が共感できる寂しさであると同時に、いつかは向き合わなければならない父親の喪失感だったかもしれない。

本作『岳物語』は、決してほのぼのしているだけの家族小説ではなかった。

父親という中年男性の喜びと戸惑いが、そこには描かれているのである。

書名:岳物語
著者:椎名誠
発行:1989/09/25
出版社:集英社文庫

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やまはな文庫
元・進学塾講師(国語担当)。庄野潤三生誕100年を記念して、読書日記ブログを立ち上げました。いつか古本屋を開業する日のために、アンチトレンドな読書ライフを楽しんでいます。