庄野潤三の世界

庄野潤三の夏目漱石体験—「坊っちゃん」から「クレイグ先生」まで

庄野潤三の夏目漱石体験—「坊っちゃん」から「クレイグ先生」まで

福原麟太郎の随筆集「夏目漱石」(荒竹出版、1973年)に収録されている「庄野潤三氏と語る『日本の文壇と英文学—夏目漱石をめぐって』」では、庄野さんの夏目漱石作品に対する考え方を知ることができる。

わたしは『坊っちゃん』というのをちゃんとまともに読んだことがなくて、四、五年くらい前に、初めて読んだんです。

(庄野)
わたしは『坊っちゃん』というのをちゃんとまともに読んだことがなくて、四、五年くらい前に、初めて読んだんです。恥ずかしい話ですけれども、ぼくはほんとうにいい小説だなあと思いましてね。あのばあやさんというのがひじょうに大きな役割を果たしていますね。ばあやさんというものに対する一種の恋愛といえばおかしいですけれども、ばあやさんを慕っている気持、あれが『坊っちゃん』の底を脈々と流れていまして、もしもあれがなければ、ただのこっけいな小説、威勢のいい小説ということになったと思いますが、たえずばあやさんが出てきて、かわいそうな環境におかれた主人公に対してどういうわけか知らないけれども、同情してひとりで応援するということから、これは何かやはり人間と人間との世の中での触れ合いの不思議さ、あわれな心細いもの、そういうものを象徴しているようで、それがやはり漱石自身の生い立ちの暗さとか不仕合せとか、そういうふうなものに根ざしているのじゃないかという気がしたんです。だから、威勢よくたまごをぶつけたりして赤シャツや野太鼓をやっつけるのですけれども、あのあと、わたしの感想はひじょうに所帯じみているようですけれども、坊っちゃんはまだ若いからいい、東京へ戻って先生になることはできるかもしれない、しかし、山嵐はどうなるんだろうかと思って、だいぶ年上ですしね。溜飲を下げただけでけっきょく何だかかわいそうだなあというふうに思って…。

この後、福原さんは、亀井さんが、日本で明治以来だれでも知っているというものは『金色夜叉』と『坊っちゃん』きりないと書いている、といった話をしているが、「日本で明治以来だれでも知っている」といわれる『坊っちゃん』を、庄野さんが「わたしは『坊っちゃん』というのをちゃんとまともに読んだことがなくて、四、五年くらい前に、初めて読んだんです」と語っているのは、ちょっとした驚きである。

後段で「しかし、山嵐はどうなるんだろうかと思って、だいぶ年上ですしね。溜飲を下げただけでけっきょく何だかかわいそうだなあというふうに思ってとあるのは、いかにも庄野さんらしい感想だと思った。

福原さん、英国留学のときの「自転車日記」というのを愉快でおもしろいとお書きになっていますね。

(庄野)
福原さん、英国留学のときの「自転車日記」というのを愉快でおもしろいとお書きになっていますね。わたしは読んだことがなかったんですけれども、今度文芸春秋から出た全集に出ておりますので、それで読んでみました。おもしろいですね、あれは。ああいう大げさなのが逆に実体を持ってきて諧謔そのものになっているんですね。その当時、漱石が神経衰弱に苦しんでいたという、そこにはあまり出ていないことのほうから来る孤独感みたいなものが、逆に大げさに書いた文章の諧謔味から感じられるような気もしますね。

夏目漱石の「自転車日記」は、現在、青空文庫で読むことができる。

留学先のイギリスで自転車の練習に挑戦するがうまくいかず、「余が廿貫目の婆さんに降参して自転車責に遇ってより以来、大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす、その苦戦云うばかりなし、しかしてついに物にならざるなり」と漱石は結んでいる。

隅々まで誇大な表現で物事を面白おかしく聞かせるタイプの随筆だが、庄野さんは「ああいう大げさなのが逆に実体を持ってきて諧謔そのものになっているんですね」と、その本質を指摘してみせる。

「実際あんなに不器用だったんでしょうかね。あれほどのことはなかったろうと思いますがね」とフォローしてみせるあたりは、やはり、庄野さんの人間らしい優しさだろう。

わたしもあの「クレイグ先生」というのはとてもおもしろいと思うのです。

(庄野)
漱石の『永日小品』という随筆集の中に「クレイグ先生」というのがありまして、これは福原さんが「漱石門外」という随筆の中で漱石の好きな作品をあげていられる中に、入っているのです。わたしもあの「クレイグ先生」というのはとてもおもしろいと思うのです。むしろほかの小説よりあの小品のほうがおもしろいと思いますね。そのクレイグ先生の家に、漱石が或る時、下宿をさしてくれないかと言うと、家中引っぱり回して部屋を見せてくれて、こういうところだからきみを泊める部屋はないと言うかと思ったら、前にホイットマンがこの自分の家にしばらく逗留したことがあるんだよと、そう書いてあります。
(福原)
そうですか、なおさらおもしろいですね。
(庄野)
おもしろいですね。かすかなえにしの糸がつながっているわけですね。

夏目漱石の『永日小品』だったら、僕も文庫本で持っている。

「クレイグ先生」のところを開くと、「先生は愛蘭土(アイルランド)人で言葉がすこぶる分らない。少し焦きこんで来ると、東京者が薩摩人と喧嘩をした時くらいにむずかしくなる」「いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭を忘れた御者かと思った」のように、ユーモア溢れる文章で、クレイグ先生のエピソードが紹介されている。

せっかくなので、庄野さんが語っている下宿の部分を引用してみる。

自分のいる下宿がはなはだ厭になったから、この先生の所へでも置いて貰おうかしらと思って、ある日例の稽古を済ましたあと、頼んで見ると、先生たちまち膝を敲いて、なるほど、僕のうちの部屋を見せるから、来たまえと云って、食堂から、下女部屋から、勝手から、一応すっかり引っ張り回して見せてくれた。固より四階裏の一隅だから広いはずはない。二三分かかると、見る所はなくなってしまった。先生はそこで、元の席へ帰って、君こういう家なんだから、どこへも置いて上げる訳には行かないよと断るかと思うと、たちまちワルト・ホイットマンの話を始めた。昔ホイットマンが来て自分の家へしばらく逗留していた事がある――非常に早口だから、よく分らなかったが、どうもホイットマンの方が来たらしい――で、始めあの人の詩を読んだ時はまるで物にならないような心持がしたが、何遍も読み過しているうちにだんだん面白くなって、しまいには非常に愛読するようになった。だから……書生に置いて貰う件は、まるでどこかへ飛んで行ってしまった。(夏目漱石「クレイグ先生」)

「非常に早口だから、よく分らなかったが、どうもホイットマンの方が来たらしい」「書生に置いて貰う件は、まるでどこかへ飛んで行ってしまった」などという展開は、いかにも『吾輩は猫である』などに通じる楽しさがあって、庄野さん好みだという気がした。

書名:夏目漱石
著者:福原麟太郎
発行:1973/9/25
出版社:荒竹出版

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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。