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伊熊よし子「グリーグを愛す」ノルウェーの冷たい空気を感じて

伊熊よし子「グリーグを愛す」評伝と名盤案内、ノルウェー紀行
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本書「グリーグを愛す」は、「グリーグ家の玄関のような役割」だと、著者(伊熊よし子)は言う。

ここからドアを押して入ると、道は様々に分かれるのだと。

その理由は、本書を通読した時に理解できる。

一見、クラシック好きの自己満足のエッセイのようなタイトルに見えるが、実際は、グリーグを理解するために必要な情報が、とても丁寧かつ緻密に並べられている。

それは、いわゆる作曲家の評伝とか名盤案内とか呼ばれるものとも違う、もっと立体的な物語の世界だ。

冒頭、グリーグの作曲小屋が残るロフトフースを訪ねる場面から始まるあたりは、さしずめ、ノルウェー紀行の一幕のように思える。

ここで著者は、グリーグがこの作曲小屋で過ごした日々に思いを馳せ、この地で誕生した数々の名曲に触れてみせる。

次に、場面はグリーグの故郷であるベルゲンの街へと移り、ノルウェー第二の都市である、この港町を紹介しながら、グリーグの生い立ちを綴っていく。

イプセン、ビョルンソン、ムンクといったノルウェーを代表する芸術家たちの名前が連なる中、グリーグは著名な作曲家へと成長していく過程は、グリーグの名曲が生まれる瞬間を、次々と見ているかのような構成だ。

ところどころにグリーグ自身の言葉を挟みながら、グリーグを巡る旅は続き、グリーグを愛した演奏家たちの名前が登場し始める頃には、読者はすっかりとグリーグの魅力に憑りつかれていることだろう。

旅行記、グリーグ評伝、作品紹介、名盤案内、演奏家のグリーグへの思い、そうしたものが混然一体となって、まるでピアノ抒情曲の演奏のように静かで透明感のあるタッチの文章で、さらさらと流れるように綴られていく。

やがて、読者のある者はノルウェーへの旅行に出かけるかもしれないし、ある者はコンサート会場に足を運び、ある者は演奏家への道を歩み出すかもしれない。

本書を通って出てきた者の、その後の道は様々に分かれているのだから。

北欧の空気のように乾いた文章で

「もうこれ以上は書けない」最後の文字が苦しそうに訴えていた。グリーグは人生の最後の最後までペンを握っていたのだ。まだやり残したことがたくさんあるのに…彼の無念の声がそこから聞こえてきそうな、そんなリアルな終止符の打ちかただった。(「トロルハウゲンでの永遠の休息」)

本書の見どころは、ノルウェー紀行や作品紹介・名盤案内など、いくつかに分かれるが、お薦めはやはりグリーグの生涯を綴った評伝に関する部分だろう。

決して学術的にではなく、一人の音楽ファンとしての視点から綴られるグリーグの生涯は、あくまで分かりやすく、親しみをもって描かれている。

と言って、決してセンチメンタルな思いに流されるのではなく、まるで北欧の空気のように乾いた文章で、言い換えると、感情を抑制した静かな言葉を並べることで、著者はグリーグの生涯と冷静に向き合おうとしているかのように見える。

もっとも、客観的であろうとすればするほど、著者のグリーグに対する深い畏敬の念は滲み出てしまうようだが。

グリーグの音楽を聴くとき、我々はノルウェーを旅している

グリーグの音楽は心身が疲弊したときや壁にぶつかったときにそっと癒し、背中を押してくれる。それも力強く押すのではなく、やんわりと優しく。私は去りがたい気持ちで赤い小屋をあとにした。また、ストレスがたまったらこよう。グリーグが愛したフィヨルドと森の空気を吸いに…。(「妖精の住み家のようなトロルの丘の赤い小屋」)

グリーグの音楽は、ヒーリング・ミュージックの文脈の中で語られることが多いが、それは、グリーグの故郷であるノルウェーの風土とも、大きく関係しているのかもしれない。

グリーグの音楽には、ノルウェーの民謡の要素を採り入れるなど、民俗音楽的な味わいが非常に豊かだからだ。

グリーグの音楽を聴くとき、我々はノルウェーを旅しているのであり、グリーグの音楽を聴くということは、ノルウェーの空気を吸っているということでもある。

今回、グリーグをBGMにして本書を読んでいるとき、自分は確かにノルウェーの冷たい空気を感じていたような気がする。

書名:グリーグを愛す
著者:伊熊よし子
発行:2007/9/26
出版社:株式会社ショパン

ABOUT ME
じゅん
じゅん
札幌在住の文化系社会人。文学散歩とカフェ読書を楽しんでいます。札幌中央図書館の2階辺りに棲息中。