いろいろの世界

有島武郎「カインの末裔」生きにくさを抱えながら生きる若者の苦悩

「カインの末裔」は、北海道ニセコ町(旧・狩太村)の農場を舞台とした小説である。

有島武郎が「カインの末裔」を発表したのは、大正7年のことで、この作品によって、有島は本格的に文壇デビューを果たした。

物語は、主人公の広岡仁右衛門が、蝦夷富士と呼ばれるマッカヌプリの麓にある松川農場に現れたところから始まる。

妻と赤子と痩せ馬を伴った仁右衛門は、人並み外れた大男で、「もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にある」ことから、農場の人々からは「まだか」というあだ名を付けられていた。

松川農場には、農場主の元で定められた多くの規律があったが、仁右衛門はこうした規律に縛られることなく、自由に生きようとする。

妻に暴力を働くことや、他人の女房を寝取ることなどは日常茶飯事で、人々から恐怖の念をもって避けられていた仁右衛門自身も、また、社会と関わることに極度の恐怖心を抱く人間であった。

やがて、規律に定める以上の量の亜麻を栽培した彼は、組合を通すことなく作物を横流しして利益を上げようと企み、挙句に小作料さえまったく納めなかったことで、とうとう農場を追放されてしまう。

子どもと馬を失った失意の夫婦が、農場を去っていく場面で、この物語は締めくくられるのである。

一般社会と折り合いを付けながら生きることの難しさ

北海道の冬は空までせまっていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。(「カインの末裔」)

主人公の仁右衛門は、社会のルールに徹底的に抗う人間だった。

妻への激しいドメスティック・バイオレンスや農場仲間の妻との不倫、禁止されたギャンブルへの没頭、畑を横切った子どもとその父親に対する暴力的な私的制裁、そして小作料の絶対的滞納など、彼の生き様は社会規範とまったく相容れることのないものだった。

いわば「自然児」とも呼ぶべき野生の人間は、やがて、松川農場というひとつの社会の中から追放されてしまうことになるのだが、こうして彼は、いくつもの社会から追放されながら、自分の生きる場所を探し続けなければならない

彼が松川農場へ現れたのも、どこか他の農場を追放されたからに違いなかったが、自然児とも言うべき仁右衛門自身もまた、自然と共生する農場の人々とも共生することができないジレンマを抱えており、自然の中にも社会の中にも生きる場所がない苦悩を抱え込みながら生きている。

ここまで極端な例とは言わないまでも、一般社会と折り合いを付けながら生きることの難しさは、いつの時代でも誰もが感じているはずであり、現代社会においてなお深刻な問題となっているのではないか。

そういう意味で、大正時代に書かれた「カインの末裔」は、時代を超えた普遍性を有しているとも言えるだろう。

農場で働く人々に対する深い哀れみ

玉蜀黍殻といたどりの茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月のような低い勾配の小山の半腹に立っていた。物の饐えた香と積肥の香が擅しいままにただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。(「カインの末裔」)

「カインの末裔」の舞台は、北海道後志管内にあるニセコ町である。

作品内に登場する「K村」は、昭和39年まで使われていた旧名称の「狩太村(かりぶとむら)」のことで、モデルとなった農場の跡には、有島武郎の記念館が建てられている。

実は「松川農場」のモデルは、有島の父が所有していた「有島農場」なのだが、「カインの末裔」では、当時の小作農たちの貧しくて厳しい暮らしぶりが、著者の否定的な視点を持って描かれている。

「カインの末裔」の発表後まもなく、有島は父から受け継いだ農場の解放運動に傾倒していくことになるのだが、農場で働く人々に対する著者の深い哀れみの念は、「カインの末裔」においても色濃く映し出されているような気がする。

有島の追求したものは、根源的な人間愛であって、仁右衛門のような社会からのはみ出し者に対してさえ、救済の道を探し求めることが必要だと、彼は考えていた。

生きにくさを抱えながら生きる農夫の姿は、現代を生きる我々の姿でもあるということを忘れてはならないだろう。

作品:カインの末裔
著者:有島武郎
発表:1918年(大正7年)

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庄野潤三生誕100年を記念して、読書ブログを立ち上げました。村上春樹さんと庄野潤三さんの作品をゆるゆる楽しんでいます。